朝田 思乃氏インタビュー“お地蔵さん”と呼ばれた私が一人前の営業になるまでの軌跡

いじめの経験から人に対してコンプレックスを持っていたがゆえに、あえて自分にプレッシャーがかかる営業職を選択した朝田 思乃氏。
先輩に胸ぐらをつかまれて説教された若き営業パーソン時代の思い出から、自分を変えるために取り組んだ独自の営業手法、社内で営業の四天王と呼ばれるまで長年営業畑を歩んできた朝田氏だからこそのエピソードを詳しくご紹介します。

朝田 思乃氏

【1】コンプレックスをばねに営業を志望…自分の人生を変えたかった

ご自身の経歴について教えていただけますか。

朝田 思乃氏1985年に営業希望で株式会社リクルートに入社したのですが、最初は総務に配属になり、3カ月ほど福利厚生関連の仕事をしました。その後、応援派遣という名目で、アルバイト情報誌事業の飛び込み営業を3カ月経験。
秋に通信事業部に異動になり、本格的な営業活動がスタートしました。そこでは、企業内ネットワーク商品を通じた、新規顧客開拓やコールセンターでの既存顧客フォロー業務を行い、営業の基本を学びました。

途中、雑誌コンテンツをダイヤルQ2で提供するサービス提案が、社内コンテストに入賞したことで、1年かけて企画立案からサービスインまで実施。ラインに戻ったあとは、音声自動応答、FAX一斉送信サービス、携帯ASPなどの付加価値通信の営業に従事。
2002年からは結婚情報誌や化粧品サンプリング誌など新たな領域で営業マネージャーを経験したのち、2003年9月にリクルートを卒業(退職)しました。基本的には、入社してから一貫して営業畑を歩んでいます。通信事業の時代には2人の子どもを授かりました。

リクルート退職後はベンチャーを経験されたとか

朝田 思乃氏当時はマネジメントの本質が分かっておらず、マネージャーとしては苦労しました。リクルートを辞めてからは、自分の力試しもしたくて、なるべくリクルートから遠い領域で働こうと、医療系のベンチャーに転職。
その後、人材紹介会社に2年半、教育系ベンチャーにも1年半ほど在籍しました。
転職続きで、ホトホト疲れてしまい、何か自分でできることをやろうと2008年に株式会社プロビーダを設立。立ち上げ当初は、事業内容も漠然としていましたが、友人から研修講師が足りないので手伝ってくれないか、と言われたことが今につながっています。
現在、メイン事業は、人材育成を通じた組織開発ですが、研修内容には、自分が営業として、あるいはマネージャーとして苦労したからこそこんなことが分かっていたら…ということを、たくさん盛り込んでいます。

株式会社プロビーダホームページ
画像は株式会社プロビーダホームページより転載

営業畑を歩み続けていらっしゃいますが、営業希望だった理由は?

朝田 思乃氏小学校や中学校でいじめにあったことで、人と接するのが苦手だし恐かった。そんな自分を変えたくて、高校に入った時に、不得意なことに取り組むことがコンプレックス解消につながるかもと、運動が苦手ながら軟式テニスを始めました。
最初は続けることを目標に、次には試合で勝つことを目標に、結局大学までテニスを続けることになりました。

そして、社会人になる時、自分にとって一番プレッシャーのかかる領域で勝てるようになれば、自分らしい人生を歩めるのではないかと考えました。
人に対するコンプレックスを持つ私にとって、最もプレッシャーのかかる仕事が営業だったわけです。自分の人生を変えたいという思いで、営業を志願しました。

自分の不得意な領域に踏み込むのは勇気のいることだと思います。当初は営業に対してどんなイメージがありましたか。

朝田 思乃氏実はうちの父がすごく堅い人だったのですが、35歳にして初めて建築の営業に従事し、変わっていく様を目の当たりにしたんですね。
最初は全く売れなかったものの、手土産代わりに覚えたての民謡をお客さんの家で歌うなど、彼なりのやり方で努力をし続けたようです。「契約が取れた!」と満面の笑みで帰ってきた父を印象深く覚えています。

その日を境に、父は自信が服を着て歩いているような人に変わりました。堅物な父が面白い人になっていったのです。
実は、いじめにあうのは私自身がまじめすぎてつまらない人間だからでは?という思いもあり、面白みのある人間になりたかった。
父を見ていると、営業には人の幅を広げる何かがあるように思え、プレッシャーがある中で、ぜひ営業をやってみたいと考えたのです。

【2】「それでも営業か!」激怒されたことが変わるきっかけに

朝田 思乃氏

苦手意識のあった営業をスタートした当時はどんな状況だったのでしょうか。

朝田 思乃氏最初の飛び込み営業の時は、お客様の前で全然しゃべることができず“お地蔵さん”というあだ名を頂戴しました(笑)。
1日100件を目標に飛び込むのですが、目線が合わないよう大きな麦わら帽子をかぶり、見本誌に自分の名刺を張り付けて置いて帰るだけ。まさに人間DMでした。
しかも、飛び込んでチラシを置いてくるだけなら、午前中で100件は終わってしまう。でも午前中ではオフィスに戻れないし、喫茶店でサボる勇気もありません。結局営業担当エリアをうろつき、さも疲れた顔をして帰ってくるなんてことも。

初受注は、新人40人の中で38番目でした。3カ月やりましたが、憧れの営業は、達成感もなく自己嫌悪で一杯でした。
毎日100本ノックをやっているようなものなので、今考えるとこの飛び込みがあったから怖いものがなくなったような気もしますが、当時はダメダメでしたね。
今、研修の受講者にこの話をすると「お地蔵さんだったなんて、信じられない!」とびっくりされますけれど(笑)。

何か変わるきっかけがあったのでしょうか。

朝田 思乃氏1年目の秋に通信事業部へ配属になり、“ここからが本番”だと気持ちを切り替えました。
それまでは飛び込みでしたが、今度は電話でアポを取り訪問する営業になったことで、アプローチも一新したのです。しかも、リクルートで新規事業を始めましたと電話すると、結構な確率でアポイントがとれました。

でも、客先に行くと以前同様、全然しゃべれない。デジタルについて詳しくないし、相手は情報システム部門の部長だったりすると、もう大緊張で世間話のひとつもできない。
名刺交換したあと、何かしゃべってくれるのを待っていたら3分ぐらい沈黙が続いたことも。
そのうち沈黙に耐えきれず、商品説明もしないままに唐突に見積もりの話なんてするものだから、当然2回目のアポイントがとれないという悪循環に。

当時は、デジタルの世界に興味もないし、面白くもなく、お客様とはうまく会話が続かない。しかも周りの営業は、弁の立つすごい人ばかり。
だんだん自分が嫌になっていって、負のスパイラルに入っていきました。そんな時、ある先輩から胸ぐらをつかまれて怒鳴られるという事件があり、それがきっかけとなり、変わっていったような気がします。

朝田 思乃氏

相当なことがないと胸ぐらをつかまれることはなさそうですが。

朝田 思乃氏その出来事がなければ、今の仕事はしていなかったように思います。
すごい先輩や同僚がたくさんいて、そこに不甲斐ない私がいること自体、いたたまれない状況でした。
最終日などは行き場がなくて、行先ボードに適当な社名を書いて出かけ、5時の営業締めの直前は、何とか時間をやり過ごそうとリストアップのふり。
すると、達成している先輩から「お前、何やっている?」「今日は何の日だ?」「数字は達成してるのか?」と問われるわけです。そこで達成していないことを伝えた途端、「お前、それでも営業か!」って胸ぐらをつかまれました。

営業所に響き渡る大声で怒鳴られたのですが、悔しいけど自分がやり切っていないことはよく分かっていたので、何も言い返せませんでした。
でも、そのことがあった翌日から、リストアップしてアポ取って、ロープレしてもらって営業に行くという、自分が嫌でやらなかったことを、ひたすら愚直にやるようになったのです。それを続けているうちに、仕事がだんだん面白くなっていき、何とか売れるようになっていきました。
やるんだとしたら、目の前にあることをやるしかないわけです。
蛇足ですが、当時、キャッチセールスに遭って100万円もの借金があった私に、やめるという選択肢はなかったんですけどね(笑)。

【3】ステテコ作戦、カットの法則…自身で編み出した営業手法

朝田 思乃氏

営業パーソンとして、自身で工夫したことはありますか。

朝田 思乃氏“うまくしゃべることができない”タイプだったこともありますが、実は相手の方が部長をはじめとした年長者ばかりで、ソファーに向かい合った途端にあがってしまうのです。
それを打破するために実践したのが“ステテコ作戦”です。

夏休みに実家に戻ると、上半身裸でステテコをはいたうちの父がテレビを観ており、その姿は なんとも“だらしない”。
そこで、目の前に座っている、父と同年代の部長も、きっとこのズボンの下にはステテコをはいているはずだと自分に言い聞かせるのです。 “人”という文字を3回書いて飲み込む代わりに “ステテコはいてる”を3回唱えて商談に臨むことに。
そうすると緊張がほぐれて、しゃべることができるようになったのです。お地蔵さんと呼ばれた私が一歩前に進めたのが、このステテコ作戦でした。

電話でアポイントを取るために工夫したことはありますか。

朝田 思乃氏当時はリクルートという名前を出すと、電話を切られてしまうことが多く、いかに受付を突破するのかが鍵でした。
そこで私の先輩だったAさんは、「あ、俺、Aだけど、社長いる?」という風に、友達からの電話のように切りだすと、受付も粗相があってはいけないと繋いでくれるわけです。
そして社長が電話口に出てきた段階で「社長でいらっしゃいますか、実は私リクルートの…」と商談に繋げていました。

私は女性ですし、友達のようなふりはとてもできない。そこで編み出したのが「カットの法則」です。
当時は赤坂営業所に勤めていたのですが、本来であれば「リクルート赤坂営業所の小町(朝田氏の旧姓)と申します」といって電話するところ、“リクルート”“営業所”をカットして「赤坂の小町ですが、部長さんいらっしゃる?」と名乗るわけです。
場所が場所なだけに、訳アリの女性から電話がかかってきたと受付は勘違いし、電話を繋いでくれるというわけです。

受付を突破するだけでも、いろんなノウハウがあるんですね。

朝田 思乃氏受付を突破してアポイントがとれても、当時は女性営業がまだ珍しい時代。「ああ、女の子が来たんだ」と商談にならず、2度目のアポイントに繋がらないことも少なくなかったのです。
ならばと、初回訪問から男性上司を連れていくことにしました。上司が不在なら、同僚男性に同行をお願いし、必ず上座に座らせる。
そうすると安心されるのか、具体的に商談が進むようになりました。「男性じゃないと話にならない」と考えているのなら、それを逆手にとってうまく進められる方法を考えるわけです。女性だからと卑屈になることもありませんでした。

出版ゴールドサービスホームページ
画像は株式会社ネクスウェイホームページより

仕事をする中で転機になった出来事はありますか?

朝田 思乃氏大きな転機は2つありました。出版ゴールドサービスという、業界特化型のFAX送信サービスを立ち上げたこと、そして合併直後だった大手石油会社の受注をした時です。
書店向けのFAX同報サービス「出版ゴールドサービス」が生まれたのは、数千ある全国の書店に対して、出版社の少ない営業パーソンで営業するのが大変でどうにかならないか、と相談を受けたのがきっかけでした。
右肩下がりになりつつあった出版業界の構造改革も求められており、当時いた部署の利益率向上という事業課題と重なった時、“これは一生に一度の大事な仕事になる”と直感しました。

その晩、夫に「申し訳ないけど、私は1年間走るので、子どものことはよろしくお願いします」と宣言。
1年間かけてサービスを作り上げ、結果として社内で優秀賞もいただくことができたのです。
私にとっては、業界を巻き込んでの初めてのプロジェクトであり、また、たくさんの出版社が手弁当で集まり、業界を盛り立てようと一緒に作り上げたという意味で、貴重な経験でした。この出版ゴールドサービスは今でも実際に売れているようで何よりです。

もう1つの転機、大手石油会社の件はどんなお話でしょうか。

朝田 思乃氏当時はリクルートが第二種通信事業者としてリセール回線を提供しており、最初に東京~静岡という一拠点の回線を任せていただきました。
その時にトラブルなく回線接続できたことで信頼を得て、その後のホストの入れ替え含めた全国オンラインシステムの見直し時に、回線全体を請け負うことに繋がったのです。  

競合は大手通信キャリアばかりで、上司からはあきらめろと言われた案件でした。それでも、監視サービス含めて全て我々が請け負うことがお客さまのためだと譲らず、紆余曲折を経て受注することができました。
当時恋人もいなかった私が、クリスマスイブも遅くまで仕事をし、クリスマスの朝にお客さまから「クリスマスプレゼントだよ。お宅に任せることに決めたから」と電話がかかってきたのを覚えています。

でも、実はうれしさよりも、横っ面を張られた感覚でした。
それまでは数字のことしか考えていませんでしたが、電話をいただいた情報システム部の部長は、社長も巻き込みながら社内をすべて説得・調整してくれて、うちに任せてくれたのです。
見えない回線という、でもこの大事なものから新しい会社の歴史が始まるという認識が私自身に欠如していたことに、「お宅に任せるから」と言われた時に気づかされたのです。
それは私にとって大きな衝撃でした。それからというもの、お客さまにきちんと納品するまでが仕事なんだという意識を持つようになったのです。

【4】女性は自身がロールモデルになるべし!自分の人生をどう設計するのか

朝田 思乃氏

当時はご自身のロールモデルになる人はいましたか。

朝田 思乃氏ロールモデルがいないと嘆いている女性は少なくありませんが、私自身はロールモデルが欲しいと思ったことはありません。男性も含めて先輩がやっていることを自分なりの方法にアレンジすればいいわけです。
しゃべりが下手ならとにかく相手の話を聞く、口頭で伝えられないなら手紙を書く、人が1回で仲良くなれるのであれば、私は3回かけて仲良くなる、そういった自分なりの方法で行っていけばいいのです。
ただ、不器用な私が人と同じやり方ではうまくいかないため、不器用なりにどう売るのかを常に考えていました。

女性の中には、社内に素敵な先輩がいない方も。そんな方はどうすればよいとお考えですか。

朝田 思乃氏「自分自身がロールモデルになればいい」とよく女性研修でお伝えしています。
少なくとも目の前にお客様がいて、そのお客様にものすごく勉強させてもらった。私のために厳しいことも言ってくれたし、機会も与えていただくことができました。お客様が何を望んでいて、何を持っていくとOKを出してくれるのか、それこそが教科書みたいなものです。
素敵な先輩が社内にいないのはさみしいことかもしれませんが、自分の周囲から学ぼうと思えば、いかようとも学べるし、自分が仕掛け人として素敵な先輩になることが大事なんじゃないでしょうか。

子育てしながらも働き続けていた頃の朝田 思乃氏
写真は、子育てしながらも働き続けていた頃

女性ならではの実感でいけば、私自身は結婚して子どもに恵まれ、子育てしながら今日までやってきました。それを経験すると、仕事って簡単だなと正直思うことがあります。
仕事は基本的に計画が立てられるし、タスクとしてやっていけば回せるもの。
自分がデザインして何とかできるのが仕事ですが、子どもは全く言うことを聞きませんし、デザインしてどうにかなるものでもない。

仕事とプライベートという考え方というよりは、もっと包括的にナチュラルに自分の人生を見ることが重要です。だれかをヒントにはできても、だれかと同じようには生きられない。だったら、自分の生き方そのものをロールモデルとして考えればいい。
環境は自分で作っていくことができるはず、設計図は自分の中にあります。

最後に営業の先輩としてアドバイスをお願いします。

朝田 思乃氏結婚や出産、子育て、介護、異動や転職まで、いろんなことが人生には起こります。
自分はやっていけるんだろうか? 私はこの程度で十分、無意識にそんな思いを持つことは誰にもある。起きる前から不安になってしまう状況を“先取り不安”と言い、特に女性はその傾向が強いと言われています。
何かをやる前から怖がっていてはもったいない。仕事だっていろいろなトラブルが突発的に起こるはず。何か起こればその都度判断し、対応していけばいいだけのこと。
営業で今売れてなくても、今後も売れないわけではありません。問題を解決する力があれば、人生も切り開いていけるはずです。

どんなことにも、絶対やりようはある。その時に大事なのは、「選択できる」「選択した」と思えるかどうか。
自分の人生を誰かにゆだねるような考え方ではなく、“結婚することを私が選んだ”“この仕事をやることを自分で決めた”など、自分に起きる出来事は自分の意志であると思えば、人生楽しい。誰かの人生じゃなくて自分の人生ですから。
逆説的に言えば私は、選んだらそれを正解にしてしまおう、といつも思っています(笑)。

大変参考になりました。ありがとうございました。

文:酒井 洋和  写真:編集部

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